20代はとにかくハードワークをしろ、という話をよく聞きます。若いうちの苦労は買ってでもしろという古い言い方から、成長環境に身を置けという最近の言い方まで、形を変えて繰り返されてきた助言ですが、同じくらいの頻度で、それはやりがい搾取を正当化する論理だという反発も聞きます。私自身いま20代のはじめにいるので他人事ではないのですが、考えているうちに、この対立は賛成派と反対派のどちらが正しいかという問題ではなく、「ハードワーク」というひとつの言葉に、本来別々の2つのことが混ぜ込まれているせいで生じているように思えてきました。

分けて考えたいのは、仕事がどれだけきついかと、そのきつさが何に変わっているかです。きつさそのものからは何も生まれないので、見るべきなのはあとに何が残るかのほうで、残るものは大きく2つあります。ひとつは人的資本、つまり自分の労働を市場で高く売れるようにするスキルで、もうひとつは金融資本、つまり複利で運用するための種銭です。どちらも、いま消費されて消えるものではなく、あとに残って増えていくストックだという点で共通しています。ハードワークに価値があるとすれば、それはきつさの量にではなく、きつさがスキルや種銭としてどれだけ残るかにあります。

この分解を使うと、同じ「きつい仕事」の中に4つの種類があることが見えてきます。スキルが付いて金も貯まる仕事、スキルは付くが金にならない仕事、金にはなるがスキルが付かない仕事、そしてどちらも残らない仕事です。2番目は薄給の修行で、研究職や徒弟的な世界に多く、期限を切った投資と割り切れるなら成立します。3番目は資格や若さの切り売りで、種銭は貯まるものの、人的資本の複利を捨てています。避けなければならないのは4番目だけで、ブラック企業という言葉が指すべきなのも本来ここです。つまりブラック企業とは「きつい会社」のことではなく、きついのにスキルも金も残らない会社のことです。きつさは4つすべてに共通しているので、きつさを見ても、自分がどこにいるのかは何もわかりません。だから「20代はハードワークすべきか」という問いは、問いの立てかた自体がずれていて、確かめるべきなのはきつさの量ではなく、きつさの行き先があるかどうかのほうです。

厄介なのは、きつさの手触りが成長の実感とよく似ていることです。終電まで働く日々が続くと、これだけ大変なのだから力がついているはずだ、と思いたくなりますが、これは汗の量から筋肉の増加を推定するようなもので、見ているものが違います。しかも、残るものの少ない職場ほど、この取り違えに寄りかかってきます。スキルにも給与にも変わらないきつさが、充実感や連帯感や「若いうちにしかできない経験」という言葉で埋め合わせられるわけです。やりがい搾取と呼ばれているものの実態は、感情を利用されていることそのものというより、疲労感を成長の代替通貨として受け取らされていることだと思います。疲労は寝れば消えますが、資本は残ります。消えるもので払われているのか、残るもので払われているのかという区別が、そのまま4番目とそれ以外の境界線になります。

そして、この話が特に20代の問題になるのは、どちらの資本も複利で増えるからです。スキルがあると次のスキルの習得が速くなり、抽象的な道具をひとつ手に入れると、隣の分野に入るコストが下がります。種銭は運用に回っている時間が長いほど増えます。複利は時間に対して指数的に効くので、同じ1年分の蓄積でも、20代に置いた1年と40代に置いた1年では、最終的な価値がまるで違います。30代で大きく跳ねる人は、30代に特別なことをしたというより、20代の蓄積の複利がちょうどそのころ目に見える大きさに達した、というほうが実態に近いはずです。跳躍に見えるものの正体は、たいてい前倒しされた蓄積です。

とはいえ、きつさがどれだけ資本に変わっているのかを直接測ることはできないので、実際には具体的な問いに置き換えるしかありません。私が使えると思っているのは、この一年を人に説明するときに「大変だった」以外に言えることが増えたか、という問いです。いまの自分を労働市場に出したらいくらで売れるようになったかでも構いません。忙しさは、資本に変わっているときも、ただ燃やされているときも、まったく同じ顔をしているので注意したいところです。